6月19日、30年来の知己で伊那出身のS先生と下伊那の阿智から根羽へとディープな道中をしてきました。
目的は、満蒙開拓平和記念館の見学と、武田信玄の終焉の地を巡ること。
生憎の梅雨空でしたが、まずは満蒙開拓平和記念館から、昨年一度訪れていますが、今回はじっくりと。
記念館の庭の蓮の葉にも雫がきれいに映えています。
残念ながら記念館の中は撮影禁止、
記念館の概要
中国東北部に1932年からわずか13年間だけ存在した「満州国」がありました。
ここに日本から約27万人の開拓移民が渡っていきました。太平洋戦争が敗戦に終わり、移民を守ってくれるはずの関東軍に見放された移民のうち8万人が命を落としました。
また終戦後も祖国に帰ることができなく、残留孤児として悲惨な戦後を過ごした人も多数います。
この後に尋ねる長岳寺の住職山本慈昭氏は、自身も満州にわたって現地の教員を務め、戦後の逃避行の後、シベリヤ抑留を経て帰国、その後中国残留孤児の肉親捜しに奔走しました。
そのような経過に立って開館された施設です。
残留孤児の証言映像や、かつての満州移民の写真など、じっくり見れば戦争の悲惨さと愚かさがよくわかります。
記念館のすぐ上手に長岳寺があります。ここの元住職が故山本慈昭氏
本堂です。
このお寺は武田信玄の終焉に由来しているとのこと。
信玄は三方ヶ原で徳川家康に快勝したあと、体調を崩し、甲府へ帰る途次、ここ駒場で亡くなったとの説があります。
こちらの現住職は満蒙より武田信玄に一生懸命。
今回も熱を入れて案内していただきました。
このお寺には信玄が使ったという兜の前立てがあります。昔は兜そのものもあったそうですが、子供が遊んで壊してしまったとか。
信玄や息子の勝頼については大変詳しくお話しいただきました。
残念なことはここもお宝については撮影御法度。
そのかわり本堂の襖絵はオーケーが出ました。
これらは阿智村在住の日本画家、吉川優氏が平成23年に奉納したもの。
お庭にも見ものが、
武田信玄公灰塚供養塔、この地で没した信玄は裏山で火葬にされましたが、その火葬塚から灰を移して供養塔にしたものだそうです。
小説「武田信玄」を執筆した新田次郎の碑も。
小説中では「長岳寺には百騎ほどの部隊が居残った。二十人ほどが信玄の遺体を裏山に運んで荼毘に付した。黄色いたくましい煙が真っすぐに立ち昇った」と描写されています。
根羽村にも信玄塚があるので、県境に向かって進みます。
昼食タイム
お寺で案内されたそば処「三日庵」県内産のそば粉を使っているそうです。
オーダーしたのは野武士そば
土鍋の中には骨付きの鶏もも肉が!
ナイフ、フォークがついた日本そばを初めてみました。骨から肉をこそげとって汁にそばをつけて食べる方式です。
肉の骨離れは素晴らしいのですが、ちょっと煮過ぎが残念。でもおいしくいただきました。
根羽村にある信玄塚
こちらも信玄終焉の地を標榜しています。
駒場とここでは30kmほどは離れています。
信玄の死地にも諸説ありますが、長岳寺のご住職の説では、重態になった信玄が馬に乗っているはずはなく、中の見えない輿などで移動していたのだろう。外からは信玄が息を引き取ったことはすぐには分からず、駒場に着いた時には亡くなっていたのでは?
医者が検死をして死亡確定が駒場では? というような説を仰っていました。
私のようにバイクで走ることも面白いのですが、今回のように目的地を決めて、ゆっくりと見学やお話を聞く機会を持てた旅も充実していました。